【募金と言う悪魔の二文字】

災害が発生すると、ボーイスカウト、ガールスカウトたちが街頭で「災害義援金募集」を行ってる姿をよく見かける。とりあえず手助け出来る行動である。その子供たちの掛け声を背に募金をせず通り過ぎる時、自分は悪いことをしているのだろうか。と、問責・呵責など自責の念にかられてしまう。目的が何であれ一般的に街頭募金は好きではない。
街頭募金活動を何も否定しているわけではない。「募金をせよ」と、押し付けられているようで、嫌な気分になる時があるということである。

募金活動と一口で言っても、色々見受けられる。きりがない。緑の羽根・交通安全・歳末助け合いなどがよく聞く募金活動であるが、訳の分からない募金活動で「募金詐欺」まで発生している。一昔前と比較すると今では大分変った気がする。

歴史を紐解くわけではないが、「歳末助け合い運動」などは、誰が誰を助けるのだろうか。などと思ってしまう。ベトナム戦争が勃発した時「募金」は「カンパ」と言われ、「ベトナムに平和を」を目的にデモと募金活動が盛んに行われた時代があった。

今となってみればあの時の募金は、どのような使われ方がされたのだろうか。更に現在では、子供の臓器移植で渡米したいので募金活動をするなどと個人的欲望で行われている。人命救助の意味合いが少し違うのではないだろうか。

募金の目的は『軍資金集め』である。何をやるにも金である。手段として募金活動が行われるが、本来自分の募金行為が目に見えることが望ましいはずである。例えば、電話回線を通じて行われているTV朝日の「ドラえもん募金」が知られているが、今回の能登半島地震で行われた募金の総額は2億1,000万円であった。全て石川県に寄託されている。

災害復旧限らず、博物館における重要文化財維持費用捻出のための募金活動も最近はよく目にする。クラウドファンディングである。これなども、自分の協力結果を一目で知ることができ気持ちが良いものである。最近では聞かないが「小さな親切」と似ている。自ら自主的に行った気持の行動は心を豊かにしてくれる。

色々な形での募金が、石川県に寄託されているに違いない。次の段階として、その募金の使われ方である。馳知事は「募金」を早急に復旧作業活動で使用してくれたらと願うばかりである。馳知事を見ていると前向きな機敏さが全く感じられないし、何をしようとしているのか全く見えない。二次避難所から更に避難所を変えたり。益々、住民の生活が混乱している様な気がしてならない。

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