【「語り部」の内容を後世に残すには?「語り部」本来の姿とは?】

 最近、よく耳にする「語り部」。「語り部」とは一般的に、悲惨な出来事で体験したことの記憶をたどり皆に体験談、教訓として、命の大切さ・日常生活の大切さを広く周囲の人々、後世の人々にまで伝えることを目的としている。

 沖縄の「ひめゆりの塔」、広島・長崎の被爆地において活動している人が多い。10年前に被害を受けた東日本大震災の東北の各地でも見かける。 

 沖縄、広島、長崎の「語り部」たちも、高齢となり伝えられない状況になっていると言う。当然この様な状況になることは以前に想像できた。元々「語り部」の後継者は存在しない。するわけはない。「語り部」をしている人は、自らの心の開き(開眼)によって自らの意志によって行動しているからだ。

 東日本大震災の被災地において高校生たちが「語り部」の名の下に、地方から復興支援で訪れた人々に語っている姿を見かけるが、違和感を覚えてしまう。

 「語り部」と呼ばれている人々の言葉・内容は体験談であるから、報道・教科書では知りえないことまで知ることがができる。広義で歴史を知ることである。体験者の話でないとしたら観光地の案内人と何ら変わりはないことになる。体験者になった気持ちで語りかけたところで、伝わるとは思えない。

 沖縄の『ひめゆりの塔』しかり。東日本大震災における津波の現場しかり。教訓として後世に伝えたいことを体験者が、現地を訪れた人々に話して聞かせている。その体験談を引き継ぎたい思いは重要であるが、高校生にそれを託すことは考え物である。高校生の感想としての『気持ちを込めて上手く話しができた』などという問題ではない。

 東日本大震災の津波で、妻と娘を失った50代の「語り部」の生活をTVのドキュメンタリー番組で見た。当時40代の男性は酒を飲む毎日で立ち直れなかったらしい。数年後に「語り部」になろうと思ったのは、亡くなった妻と娘そして周囲で犠牲になった人達に対する「供養」(自分だけ助かった心の罪悪感)で、自分が「生る」ためであったらしい。

 人々に語りかける意味は、自分の思いを亡くなった人達に伝えることのような気がした。この男性は、周辺の小学校にも出かけて話をしていたが、最近、この体験談が道徳の教科書にも取り上げられたとのこと。

 小学生たちにも聞いてもらえる記憶と教訓(命の大切さ)。そして、道徳の教科書。このキーワードが、「語り部」が後世に伝えることの出来るヒントがありそうである。個人で語り通すことには限界がある。地域・周囲の組織的な協力・プロジェクトを組んで取り組まないと消滅してしまうような気がする。

 言葉だけで伝える事が「語り部」の行うことではなく、その「語り部」の内容を目に見える形として残す事が重要であるのでは。人々の脳裏に「語り部」の内容を残すには、郷土史・詩・演劇・小説、等々色々考えられる。決して、語り継ぐヒトを残すことではない。