【ハンコは芸術品だから日本社会からなくなることはない】

新型コロナウィルス『COVID-19』は、日本の「ハンコ社会」に難問を投げかけている。半年間以上もつづいている在宅勤務・テレワークが板についてきたにも拘らず、書類押印のため会社出勤をせざるを得ない会社の仕組みを浮き彫りにしている。それだったらいっその事、書類押印のハンコを廃止するシステムにしてしまおうという動きが出てきた。ハンコを押すだけのために、わざわざ出勤しなければならない効率の悪さ、矛盾した在宅勤務だ。

非常に難しい問題である。デジタル社会において「ハンコ」に変わるシステムは、自分の会社内だけであれば可能であるかも知れない。それが他の会社同士のやり取りでシステム構築はできるのだろうか。素人考えで、非常に高度なデジタル技術を持っている会社と、そうでない会社との間では、成り立たないような気がする。お互いに契約書の承認などはできるわけがない。ハンコが無くなって「領収書」に代わるモノがあるのだろうか。証明するものがない。領収書にハンコが押されて無ければ、ただの紙切れである。

かと言って、「ハンコ」がそれほど重要なモノではないような気がしている。元々、ハンコは「証明印」の意味など果たさないのである。まだ“筆跡”の方が意味を持っている。今の世の中、印鑑などは技術的にコピーで簡単に作れてしまう。契約書とか領収書に「印」は、押されていることで安心してしまう力を持っているに過ぎない。水戸黄門の印籠と同じである。見ただけで、本物と信じてしまうのが、日本のハンコ社会・文化なのであろう。

筆者は「ハンコ」はアート作品だと思っている。以前に蔵書印を自分で彫る手順をブログで発信したが、お寺や神社巡りで押すことができる御朱印などは素晴らしいと思うし、掛け軸には作者の「印」は必要である。やはり、「印」はモノを証明する以外に、価値を高める魔力がありそうだ。

画像の「ハンコ」は、靖国神社と伊勢神宮の印である。将来「ハンコ」は、この様なアートな世界で生き延びてゆくのではないだろうか。

高額な象牙の「ハンコ」と「シャチハタ・ハンコ」「キティ印」に違いなどあるはずがない。どうして契約書で「シャチハタ」「キティちゃん」は認められないのだろうか。証明としての「ハンコ」は将来消えても、アートとしての「印」はなくなることはないと信じている。「ハンコ」がなくなることはないと言っても、困るのは、ハンコ産業である。篆刻師(てんこくし)の存続も気になるところである。