【小泉八雲の霊界に引きずり込まれた男の覚書】

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) ギリシャのイオニア諸島のレフスカ島に1850年生まれる。1890年(40歳)でアメリカのハーパー出版社特派員として日本に来る。暫くして、ハーパー社との契約を破棄。紹介で知り合った東京帝国大学教授のB・H・チェンバレンと文部省の服部一三の斡旋で島根県松江中学校の英語教師となる。
1891年(41歳)で旧士族の小泉節子と結婚し、1895年(45歳)日本に帰化し小泉八雲と改名。1904年(54歳)で没。法名は「正覚院浄華八雲居士」。

八雲作品の魅力
八雲の文章(作品)作りについての語りがある。
『良い文学の一行一句を生み出すためにも、その文章は少なくても三度書き直さなくてはならない。特に初心者は、三・三・九度書き直して推敲(すいこう)したとしても、なお十分とは言えぬ』と。
それ程までに八雲の作品は、推敲され尽くされているのであろう。

作品の魅力は、何と言っても物語の構成。最後の仕上げ部分『落ち』である。締めくくりは、八雲が、物語の余韻を残しその場から消え去る手法である。単なる言葉の『落ち』ではない。幻想的な『落ち』である。外国人は、ジョークとかユーモアの感を日本人よりは持ち合わせている。八雲は怖さを、ジョークやユーモアで、ある時は外国人に理解され難い日本人の持つ精神(心)で煙に巻くのである。

書き上げた作品の多くは、八雲のために妻の節子が収集した民間伝承の民話で、それらは外国人(海外)向けに出版されている。日本に伝わっている昔からの物語(作品)が、これほどまでに新鮮で実話の如く感じられるのは、伝承物語だけで終わるのではなく、八雲が語る随筆(随想)の中でかたられている面白さがある。物語に付け加えた八雲の感想、思いがより一層、物語を際立たせていることは間違いない。

浦島太郎
子供の頃に聞いた誰でも知っている浦島太郎の物語が良い例である。コンテンツは『夏の日の夢』と言う随筆(随想)である。浦島屋と言う旅館での情景から物語に引き込まれる。話の最後は決して、子供に聞かせる話ではない。大人が喜びそうな結末である。

『・・‥次の瞬間には浦島の様子が変わっていました。氷のような冷気が血管を走り抜けました。歯は抜け落ちました。顔はしわだたみ、髪は雪のように真白になり、手足はしなび、力は潮の退くように抜けて行きました。浦島は生気を失って砂浜に倒れてしまいました。四百年の歳月の重みに打ちひしがれたのでした』

ジョーク・ユーモア的に締めくくられているのが『牡丹灯籠』である。

牡丹灯籠
『霊の日本にて』の「悪因縁」の中に牡丹灯籠は収められている。牡丹灯籠は、中国から伝わった物語であるが日本風に作り替えられ、多くの翻訳が存在する。中でも、はなし家の三遊亭圓朝の語りが有名である。八雲の牡丹灯籠の大筋は圓朝の物語の流れで語られているが、最後は八雲ワールドの最高の『落ち』で締められている。

八雲は、牡丹灯篭を書き上げるに当たり実際に、新三郎・お露・お米の墓地(新幡随院)を見学に友人と行くことにした。

その墓地において、最高の『落ち』を味わうことになる。少々長くなるが引用することにする。

『行ってみると、寺はつまらなく、墓地はひどく荒れはてていた。むかし墓のあった跡は芋畑になっていた。・・・・(略)・・・・。門をすぐ入ったところの小屋に、一人の女が食事の支度をしていた。私の連れは、思いきってその女に、牡丹灯籠の話に出てくる墓のことを知っているかたずねた。「ああ!お露とお米の墓ですね」彼女は笑いながら答えた、「それは、寺の裏の一番近い並びの端っこのそばー地蔵様の隣にあります」・・・・(略)・・・・ついに苔におおわれた二つの墓に達したのだが、墓の文字はほとんど消えていた。「文字はちょっと読みとれそうもありません」と友人が言った。・・・・(略)・・・・彼は袂から、白い柔らかい紙を一枚取り出し、それを墓石の文字の上へひろげると、一塊の粘土で紙をこすりはじめた。そうしてるうちに、汚れた紙の上に文字が白くあらわれてきた。・・・・(略)・・・・「これは、吉兵衛という、根津の宿屋の主人の墓らしい。もう一つの方に、何が書いてあるか見てみよう」また新しい紙を一枚取り出し、彼はやがて戒名の文字を写しとって読み上げた。「誰か、尼さんの墓ですね」「なんだ、ばかばかしい!」わたしは叫んだ「あの女は、われわれを茶化したのだ「それは』友人は異議を申し立てた、「あの女に酷すぎます!あなたは、感動を受けたくて、ここへやって来たのでしょう。だから、あの女は精一杯、あなたを満足させようとしたのです。いったい、あの怪談がほんとうにあったことだと、あなたは思っているのですか」』

話はここで終わっている。

本来であれば、八雲と友人が実際にお墓を見に行こうと相談した時に、筆者は物語と現実の区別を感じとらなければならなかった。なのに八雲のマジックにかかってしまい読み進めてしまった。物語の余韻を引きずってしまったというわけである。

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