【復讐するは我にあり!神に復讐を任せてはおけない】
佐木隆三は実際の事件をもとに『復讐するは我にあり』を書き、1976年に第74回直木賞を受賞している。何十年か前に読んでからタイトルの意味が気になりつつ今まで理解出来ないでいた。
『我』の意味がどうしても分からなかった。『我』とは自分のことであり、結局、殺人を犯した自分が悪いのであって「復讐されるのは自分自身である」と言う意味と、他方、相手のことを卑しんで『我』と言う意味にもとれ「お前に復讐してやる。絶対許すことはできない」と言う両方の意味に受け取れ解釈できないでいた。
このタイトル『復讐するは我にあり』は、新約聖書に出てくる一部であり、「自ら復讐などはするべきではない。神の怒りに任せ、悪人に報復を与えるのは神である」から引用した事が分かった。すなわち、『我』とは『神』のことであった。佐木隆三は、5人を殺害した主人公を肯定も否定もしない気持ちを込めてタイトルに引用したらしい。
ところで、神はどのような報復を行うのであろうか。
実際問題として自身・親族が許すことの出来ない不幸に見舞われた時、復讐を『神』に任せておけるだろうか。筆者としては、神に任せてはおけない。その場がきたら、やはり、自ら納得ゆく復讐を行うことになりそうだ。
さて、自ら手を下す報復の手段・内容である。行動が犯罪行為として罪となってしまうことは避けなければならない。犯罪者となっては何の意味もなくなってしまう。報復どころか、自分の醜態を周囲に晒す(さらす)ことになってしまう。
復讐には、精神的に相手を追い詰める「精神的報復」と、この世の中から完全に抹殺してしまう「殺人報復」の大きく二つの方法が考えられる。
「精神的報復」は、相手を傷つける(殺人を含む)事なく相手に不安感を与える(追い詰める)方法である。相手の精神状態を『疑心暗鬼』にすることである。自分が納得するまで、呪う気持ちを持ち続けながら相手に不安感を与え続け、サスペンスの状況を作り出す意味である。これは、脅迫とは異なるのでご注意を。
あまりお勧めはできないが、どうしても相手を殺さなければ気が済まない方は、筆者のブログ『完全犯罪を成し遂げるための殺人死体処理方法』と『殺人で死体から血液を抜き取ることは手間の割にはそれほど意味がない』を読んでいただきたい。犯罪者となることなく報復を成し遂げることが可能である。
復讐を神に任せてはおけないことを記したが、報復の行動を起こすにあたり目的達成のために「神」と「仏」に手を合わせてることになる。祈り誓う。結局は、神に任せておけないと言いつつ、神・仏に応援を頼むことになることは確かなようである。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません